Henry Jenkins "Textual Poachers" 1992 Routledge
1992年、まだメディア論では生産者の操作性が強く主張されていた頃に、いやいや、ファンの側だってテクストを能動的に解釈し、ファン・コミュニティを作り上げ、意味の生産を行うんだよ、と一石を投じた本。

その意気込みは認めますが、分析としてはあまりにもバイアスがかかっているので、やや勇み足だったのかも。理論的にもセルトーの「密猟」とか援用しつつ発展させようとしてるみたいだけど、残念ながら超えられてはいない(セルトーとの差異化を図るために、セルトーが作り手と読み手の区別をつけたのに対し、ジェンキンスはファンのファン・ジン生産などをあげて、能動的ファンを描こうとするが、スター・トレックのような組織的に文化産業の中で生産されたテクストは、正典として明らかにファンより優越した存在であり、流用の域を超えていない)。

スター・トレックのファン・コミュニティを分析の対象にし、自らもそのファン・コミュニティの一員であるジェンキンスですが、やっぱり中にいすぎるとどうも近視眼になるのかな。「トレッキースター・トレックの熱狂的ファン)がなんでそんな幻想の世界に莫大な時間やエネルギーを費やすのか理解できない…、そのエネルギーをもっと社会問題や貧困問題につかった方がいいんじゃぁ…」って反応はもっともかも。

批判的に読めばなぜカルスタが頓挫したのかを知ることができるし、議論するのにベタな視点はごろごろ転がっているのでたたき台にするにはいい本だろう。文化の中に「抵抗」的契機を必要以上に読みこんだり、実践の中でそれを過剰にセルフ・ポーズする人、実践至上主義でなにかした気になっている人(→自分)が読むと、自分の寒さに気づけるかも。