bbb_tomo2004-03-11

スプリング・ブレイクに入って早々とんでもない事件がおきる。

今日は朝から友達を空港に送りにいったんだけど、その友達から昨晩大学で起こった事件について聞かされる。その昨晩の事件というのは、ある教員の車の窓ガラスが割られ、"NIGGER LOVER", "KIKE WHORE(ユダヤの売春婦)", "SHUT UP BITCH"とのスプレーペンイントされていたというもの。この事件のの発生に伴って授業はすべてキャンセルされた。(http://www.mixedstudents.org/hatecrime/index1.htm

そもそも、この事件には今学期が始まってすぐにおきた別の事件に発端がある。その事件というのは、学生が作ったアートの布でできた十字架が何者かによって放火されたというもので、それが人種差別的動機から起こされた事件ではないかとの声が上がった。大学側はことを荒立てないためにか、事件を無視。それに対し、一部の学生が中心になってアクトアップを開始した。

今回、被害にあった教員は授業のなかでアクトアップに好意的な立場をとり、「ヘイト・クライムをおこすものは地獄へ落ちろ」ということも言っていたようである。よって、犯人は何らかの形でターゲットをしぼって犯行起こしたと考えられる。

そして、今日、今回の事件に反対する集会が緊急で行われた。メールで情報がいきわたっていたせいか、かなりの数の学生や、教員、大学で働く人たちが集まっていた(正確には分からないけど、500から1000人規模?)。積極的に声をあげる人から、ぷらっと立ち寄った人までさまざまだったみたいだけれど、スピーカーが順々に話をはじめると、みんな静かに聞き入っていたので、それほど「お祭り感」はなかったけど、スピーカーの話に反応して群集が盛り上がると、得体の知れない一体感を感じずにいられなかった。


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集会に参加したある日本人の知人は、「あんましたいしたこといってなかったね」という反応だったのだけれど、自分はその反応には若干の違和感を持った。そもそも、そこに集まった人たちは「たいしたこと」を言うために、もしくは聞くために、そこに集まったようには到底思えなかったからだ。むしろ、当たり前のことを再確認するために集まったように自分には思えた。そして、「たいしたことない」という反応にはすごく日本的なコンテクスト(社会運動に対する不信)を感じた。

たしかに、スピーカーの台詞の中には、思考停止的な「社会の変革」「自由」「人権」などの言葉が並んだりしてたけれど、やはり、ヘイト・クライムは許されるべきものではないし、今日の午前中に緊急で届いたメールに対して、かなり多くの人が反応してそこに集まった意義はそれなりにあると思う(社会運動アレルギーが蔓延している日本では、まず考えられないから)。

そんな中、自分がすごく気になったのが、話者のパフォーマンス/レトリックと、自分を含めた聴衆の「反応の仕方」だった。まず、進行役のスピーカーは白人の男子学生で、いかにも話し慣れしていない感じで、聴衆の反応もまちまちだった(”つかめてない”感じ)。しかし、順が進むにつれ、たとえば、アジア系の女子学生がかなり感情的にスピーチ・アクトすると、聴衆がかなりわいたし、地元の政治家は非常に、短く簡潔なスピーチで聴衆を沸かせていた。一方で、ユダヤ系の男子学生が、「ユダヤのコミュニティが攻撃されている」という論調のスピーチをすると、聴衆は反応はするものの、自分のコンテクストとして共有できていない感じがかなり現れていた。焦点がプライベートすぎたようだ。

逆にトリで被害者の教授の話になると、教授にとってはプライベートなことなのだが、あくまでも教授が「パブリックな”自由”が攻撃されているのだ」との論調で話を進めると、聴衆の反応も非常に大きかった。さらに、「被害者の教授が自由の代弁者としてスピーチをする」という正統性も、彼女の演説にオーラを加えていたようにおもう。


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そんで最後に一番考えたのが、それに対する自分の反応。一連の事件は気には留めていたけれど、自分の中ではそれほど大きな問題としては考えていなかったし、運動に関わったわけでもない。今日は集会に参加したものの、スピーカーの話に対して、それほど感動を覚えたりすることはなかったけれど、彼らの信条にはコミットしている。でも、あるスピーカーの話の中で「われわれのコミュニティは差別を許さない」という感じで「コミュニティ」が連呼されると、どうしても、すっと共感ができず、違和感を持つと同時に、「日本人はコミュニティ意識が希薄だ」ということをなんとなく実感したり。

一番気がかりだったのは、被害者の教授が、本当に「ヘイト・クライムの支持者は地獄へ行く」という言葉を発したことだった。聴衆は「いいぞ〜」的な感じで反応していたけれど、ヘイト・クライムに反対するためのレトリックとして、このような敵/味方的攻撃的なレトリックを使うということ自体がヘイト・クライムを現に存在させ、活性化させているのではないかと思わずにいられなかった。

たしかにヘイト・クライムに対する反応は「沈黙」であってはならないのだが、反応としてスピーク・アップを選ぶのならば、その方法は慎重にかんがえんといかんなぁ。最近思ったことや違和感を自分の中ですり潰してしまいがちな自分にとって、「沈黙」「スピーク・アップ」は別の意味で触発的だったのでした。