RE:運動・論 再考

未だにはてなの使い方がよく分かってないんだけど、id:gyodaiktさんにコメントを引用していただいたので(id:gyodaikt:20040218)、久々に何か書いてみる。

デモに参加してる友人の話を聞くと「いや〜、楽しい」に近いノリから、他に自分の意思を示すチャンネルがないからパーティのりだと言われるのを承知で仕方なく、という人までいろいろなのでそういう軸で運動論を考えれると面白いかなあと思っています。あ、でも運動論っていかに位置づけしてみても運動そのものにはかなわないのかな…(というか運動の定義自体があいまいだ)。

という自分のコメントに対して、

本当に「現代運動・論」は難しい問題ですよね。『情況』3月号では菊地夏野さんが「リブの現在性」という論文の中で、WIBについて見解を求められた上野千鶴子の発言「(自分が街頭行動をしなくなったのは)マスターベーションとしか思えなくなったからですね。アクティヴィズムが街頭行動と結びつくとは考えなくなったから」を引用し、「上野自身が、「街頭に出た人が出ない人よりもえらい」という論理を批判しながら、自分の立場の特権性に気づかない振りをしている」と批判されています。

というお答え。このリファレンスはまったく的を得たものだと思います。
ここでやはり問題になるのは「運動の主体」の位置づけであるとかと。

まず、社会運動の行為‐目的関係を大きく二つに分けると、1:運動によって何かを変えることが目的(目的遂行のための運動)。2:運動そのものが目的(運動自体の目的化)であるかと。

id:gyodaiktさんによると、上野千鶴子(さん:以下敬称略)は2になってしまった運動を自慰と批判したのだけど、この立場の変化(または2の批判が成立するために)は1の中にいたはずの上野が1の外に出ることによってはじめて得られるということだと思います。1の外に出ることによって上野は運動観察者としての特権的地位を得たことに対し、菊池夏野は批判しているかと思います(ちょっとよく分からないのは上野の立場がなぜ特権性を持つのかということ。菊池が批判するのが上野が運動を「祭り」と切り捨てることによって何もしない人と同じになった、という批判ならわかるが)。

すなわち、2という観点が出てくる(もしくは運動を1、2と分けることができる)ためには少なくとも、運動を客観化して眺めることのできるメタな位置にいることが前提になっている。おそらく、自分が1のように自分が運動の中にいると信じきっている人は自分がよもや2のような運動をしているとは思っていないかと思います。

しかし、僕が例に出した友人は、「楽しい〜」自己目的ノリで参加しているひと自分を差異化し、自分を客観化できているが、「他に自分の意思を表示できる回路」がないために運動に参加するというシニカルな立場を運動の内部で取っているわけです。となると、運動の内/外という運動の主体の実際の位置取りと、運動の主体の自己に対する位置取りは必ずしも一致しないということになる。これがid:gyodaiktさんのいうCSと宮台の一致かな?

あと、変えないといけないとはおもってるけど、デモはやっぱり「祭りでしょ」っていう人は、信条の次元では「変えなくていい」と思っている人、さらには運動自体に無関心である人とを行為の次元で一致してしまう。

ぐちゃぐちゃしてきたのでまとめると、運動の目的は何かを変えることである、にもかかわらず、運動が自己目的化ケースがあるので、上野のような立場をとると、「運動の目的は何かを変える」という運動本来の目的を達成するために運動そのものから離脱する(やっぱり「運動」の定義があいまいかも。運動は「デモ」だけじゃなくて、ロビー活動や政治的活動もあるし)という転倒が起こる。

まとめになってない・・・。一時中断。