Everybody’s Scientists 運動論

結局、運動論うまくまとめられず、id:gyodaiさんのコメント(http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040218
を見て納得。

運動をパフォーマティヴに遂行することと、それをコンスタティヴな次元で分析することとは一応分けて考えることができる。そんでもって、「分析」的な自意識の相対化がパフォーマンスそのものにフィードバックしていく可能性だってある、いや、あると信じたい、というのが僕の考えです。それがガクシャ先生の戯言だと言われれば返す言葉はありませんが、そんな戯言を吐いている人だって「運動へのコミット」を拒絶しているわけじゃない。「運動を語ること」がなぜ即「水をさすこと」になってしまうのか、そのあたりの言説の構図が僕には不思議でならんのです。

でも、こういう一連のプロセスって、信じるまでもなく、日常生活で普通にみんなが知の断片として使ってるものなのかな。それが体系化していくと学問という形で制度化されるだろうし、そうして制度のなかで生み出されたものは社会システムの中で流通し、利用されるし。

"Everydody's Scientists"はBig In Japanっていう知人のバンドの曲なんだけど、知に対する否定的な態度をとるってこと自体、知の作用だっていうのは皮肉なこってす。「運動を語ること」=「水をさすこと」という立場をとるということは、運動に対して完全にその外部にいることがとできるという確信から来ているのかな。運動を語りきることができるのなら、それはある意味、無批判の運動肯定と同じ立場になっちゃう。

運動のおそろしい(すばらしい?)ところって、それが外在的にあるのではなくて、内在的にあるところなのかな。運動に対して純粋に外在できる人はないわけで、例えば、ある人が、運動に対し無関心であったり、本気で運動について一切知らなかったとしても、テロの犠牲者(悪い例)のように強制的にかかわらせられるのが運動というものではないかと。

となると、自分が行う自意識の相対化という作業も非常に限定的なものにならざるを得ない。運動に対する位置取りはそういう自分自身の逃れることのできない特異性の位置確認から始まる。だからこそ、その限界を踏まえて、その相対化が一切無駄で、運動と切り離されたものであるとは考えられない。むしろ、その限界を踏まえるからこそ、運動から切り離されることが不可能になる。

あと、一番気になるのが、この種の議論って、「街頭に出た人が偉い/街頭に出ない人は偉くない」という次元や「煽る/煽られる」という権力関係の問題に帰結してしまいがちなところ。自分的にはもっとミニマムに、ニュートラルな位置取りを運動に対してとりたいなあとナイーヴに夢想するのですが、甘ちゃんなのかな。