抜け殻

授業が終わり、一週間。それまでの緊張が一気にほぐれて、虚脱気味に。日本の五月病とは違う意味で、「五月病」です。そんな中、注文していた稲葉 振一郎の『経済学という教養』(ISBN:4492394230)と毛利 嘉孝の『文化=政治:New Cultural-political Movements in the age of globallization』(ISBN:4901477080)が届いたので、斜め読み。

稲葉本はHot Wiredで連載されてた時に読んで興味を持っていたのだけど、「ヘタレ人文系」の自分にはどんぴしゃかも。Hot Wiredではもっとガンガンにネグリ=ハート批判していたのだけど、この本では鳴りを潜めてるみたい。にしても、稲葉氏は知的マッチョリズムというか、「ついてきます、先輩っ!」てきな知的マゾヒストがファンに多く付きそうな文章を書く人だなぁと。まあ、スパッと毒をはいても嫌味にならないところがステキw。

一方の毛利本は、アンビバレント〜。前学期に『社会運動のレトリック』という授業をとって、この辺の文献は一通り読んだ後だったので、特に目新しいことはなく、要領よくまとめてあるなあという印象。しかし、読めば読むほど、なんというか、萎えてしまった。自分の恥部を見ているようで。

というのは、まさしく、カルスタが現実の政治問題について閉口しつつあり、攻めあぐんでいる姿が如実に出てしまった本だなあと。なんというか、BK1の内容に説明によると、「反グローバリズム運動や反戦運動に見られるストリート占拠、カーニバル、パフォーマンス、サウンドデモ等の80年代以降の「新しい社会運動」の波を「新しい文化=政治運動」として捉え直し、その可能性を実践的視点から考察」らしいのだけど、まるで、実践的ではない。理論として使えない。これを読んだどこかの誰かが、具体的に何か行動を起こそうと思っても、何も使えない。社会教養にはなるが。

すっ飛ばして結論部、

「文化=政治」は、本来別々の領域として考えられてきた「文化」と「政治」というふたつのカテゴリーがいくつかの偶然が重なったことで奇跡的に交錯した、その一瞬に垣間見えるひとつの認識のあり方を示している。それは、過去と未来のさまざまな、しかし、なかば忘れられているラディカルな「文化」と「政治」の認識の仕方が、あたかも現在の中に突然蘇るような瞬間をとらえることである。そして、それは特別なことではなく、私たちの日常生活の中に散逸ししている技術を取り返すことなのだ」pp. 211-212.

ああ、なんてナイーヴな。なんかベンヤミンぽく、グロスバーグあたりのカルスタの論客に通ずるような、掛け声に終わってしまっている印象が(いちいち、文化現象を「戦闘」「闘争」「陣地」のような戦争の比ゆで表す必要があるのか?なんて素朴に。まあ、それ自体が動員レトリックなんだろうけど…)。なんというか、あとづけの運動論になっちゃってるんじゃないかな。運動論は生ものだけに本当に難しいのだけど、もうすこし、「現実紹介型」ではないような切り口は見つかんないもんかなぁと。

著者はアレントの「公共圏」の概念に依拠しつつ、「社会的なもの」による回収−調停からのがれ、「文化=政治」を本来的な政治空間を作り上げる契機としてみようとしている。結局落としどころは、バック・トゥ「民主的対話」と「公共圏」ですか…。それがうまくいかないのでこれだけ政治情勢が泥沼化しているのに…。うーん。

いかん、愚痴っぽくなってしまった。でも、なんだかんだで、シアトル以降の最近の社会運動について知りたい人や、社会構造の変化から派生してきた「社会運動」と「新しい社会運動(アイデンティティ・ポリティクスなどの価値依存型運動)」の違いについて知りたい人にはいい教科書だと。まだ、斜め読みしかしてないので、詳細については時間があればレビューします。